<よかネット>No.66 2003/11
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青壮年の個族化が少子化・高齢化社会の原因になっている |
| ●豊かさの中の個族化 私たちは今、地縁や血縁が弱くなったために、それらの縁を頼りに暮らすという日常が壊れて、何時孤立し孤独に暮らさざるをえない日々に追い込まれるか、分からない時代に生きている。それは一人暮らしになることであったり、心の支えがつながらない家庭で過ごすことであったりする。つまり今の時代は、地縁や血縁を中心にして肩を寄せ合って生きる社会から、形の上でも、心のあり方からも、個人個人が自立して生きていかざるをえない社会になりつつある。それを「個族化社会」と呼んで考えてみたい。 今までの私たちは、豊かさを求めて励んできた。その結果、世界でも有数の豊かな社会を築き上げることはできた。モノの豊かさを効率的に生み出すために、私たちが選んだ方法は、人間も効率的に配置することであった。そのことも、世界史上もっとも早いといわれるスピードで、農山村から都市へ、大量の人々を移動させるという地域改革として、成し遂げた。その過程で血縁や地縁は薄れていき、モノの量産システム追及のために、会社の中の縁さえも弱くならざるをえなくなっている。 従来の社会では、多くの人々はタテ型の血縁や地縁で強固にカバーされていた。しかし工業社会では、人々は自由で、移動の可能な人材・労働力となった。それは、大量生産・大量消費型社会の中で、それぞれが勝手に家族を形成し、生きていくことでもあった。そのこと自体は、私たちにとって非常にすばらしいことでもあった。血縁のうるささから逃れ、地縁の義務から解放され、自由で豊かな暮らしを享受することができたのだ。これらについては、古くから指摘されていたことで、工業社会の一つのすばらしさである。 ところが、私たちは現在、二つの問題に直面しているように思う。一つは高品質なモノを大量生産するというシステムが、日本から他のアジアの国に移って行きつつある。そのことは私たちが、工業社会の次の情報産業社会というシステムの中で、モノ以外の「知」を生産し、販売し、消費して豊かさを感じなければならなくなっているということを示している。もう一つは、タテ型の血縁や地縁システムで保護されない部分を、ヨコ型のネットワークで補強し、支えていかなければならないということである。 ●映画・文学作品からみた個族化 個族化社会という言葉には二つの側面がある。ひとつはフィジカルな意味の「ひとりで暮らす」という意味であり、もうひとつはメンタルな意味の「精神的なつながりがなく孤立している」という状態である。この問題を生き生きと示す映画がある。「東京物語」と「息子」である。前者は昭和28年(1953年)の製作で、現在世界的に最も注目されていてる小津安二郎監督の作品である。後者は、1991年、山田洋次監督作品。 「東京物語」は、地元尾道から上京した老夫婦(笠智衆・東山千栄子)が、血縁の息子や娘の家で快く迎えられず、血縁のない戦死した息子の嫁(原節子)にもてなされる。落ち着かぬ東京から、尾道に帰郷する途中で老妻が病気になり、帰郷後亡くなるというプロットである。 一人残された、年老いた夫が海を見つめる最後のシーンは有名である。家族の崩壊や老い、孤独などを描いたものとして高く評価されている。この映画は多くのことを示唆しているが、現代の高齢問題の視点とはおもむきが異なる。当時は日本人全体があわただしい社会に生きていたので、「この一人の老人を誰が介護するのか」などとは受け止められなかった。しかし、今あらためてビデオを見ると、老妻の葬儀のあと、東京や大阪へ帰っていく血縁の長男や長女などの動きは、「年寄りにかかわっているヒマはない」といったあわただしい雰囲気である。今ならこのあとが気になるところである。「息子」の場合は、まさに介護が問題になっている。この映画が製作された1991年には、高齢問題が社会的なテーマになっていた。 このあらすじは、妻を亡くした老父が山間の農家に住んでおり、タバコなどを作っている。そこへ、老母の一周忌ということで、長男・長女の家族、そしてまだ就職先も決まっていない次男が帰ってくる。最近、近隣の老人がプロパンガス事故で死んだという話も出て、誰がどこで老父を引き取るかということが問題になる。一流の勤め先をもち、家族の中の出世頭である長男は、千葉の方の高層マンションの11階の家を買い、六畳の部屋とテレビを用意している。戦友会のために上京した老父を呼んで2〜3日暮らしてみるが、マンションの一室だけの暮らしにはおさまらない。 小説の「風の行方」(佐藤愛子著、毎日新聞社刊)は現代家族の個族化を示している。「ママはいなくなった。おじいちゃんも遠くへ行ってしまった。なぜこの家は急にこんな風にバラバラになってしまったのだろう?」と、一人っ子の少年が回想するところから始まる。少年を取りまく4人の家族が、突然それぞれの、それなりに納得がいく理由で別れだし、それぞれが主体性があるかのような自己主張を始めて、バラバラになっていく話である。 祖母は、長年家族に尽くしてきただけだという思いをもっており、夫に離婚を迫る。夫(祖父)はその希望を受け入れて、自分は岩手の山奥の無住寺に住みつきひとり暮らしを始める。彼は教師の出身であり、そこでもう一度本来の教師の夢を思い、塾をやろうとするが、その山里にはほとんど子供はいない。 息子の父母もそれぞれ自立するといって別居し極めて平均的な五人家族は、四人家族に変貌する。少年はいじめにあった子をかばったことから、自分もいじめにあうが、ひとりぼっちの健気な戦いを続ける。 これは、便利で豊かな現代社会と、自我の確立のようなものを求める性(さが)に挟み撃ちされた、現代のバラバラ物語である。タテ型システムの基礎を受け持っていた家族が崩壊し、地域社会や学校からも、昔のシステムは追放されかかって いる。 もうひとつ、「変わる家族 変わる食卓」(岩村暢子著、勁草書房刊)という本で、食卓という 場が、「核家族さえも内部で個化」しているという報告である。この本によると、食卓は共通の場ではあっても、個別に思い思いの食べものを、それぞれの時間に摂る場となっていて、一緒に使う場ではなくなっている。 もしそうならば、居間とか食卓は、個化した家族のメンバーが集散するための、駅のコンコースのようなものになっているといえよう。あるいは家の機能をそのように見る、「コンコース家族化」しているといえるかもしれない(この本の内容については15頁の「本・BOOKS」欄に)。 ●進展する青壮年の個族化 個族総数を示すと(表ー1参照)、30〜34歳層では1975年に13.8%だったものが、2000年には35.5%になっている。同世代人口の1/3が個族となっており、その比率は今後も増加しそうな勢いである。青壮年世代の個族総数(30〜54歳)でも、同期間中に7.9%から19.8%に、ほぼ3倍増になっている。青壮年についてみると、1985〜90年頃からの急増が目立っている。 私たちが十数年前に「個族」ということを考え始めたときは、高齢者の問題としての「個族」であった。もちろんこれは大きな社会問題ではあるが、現在、高齢者については一応介護保険というシステムができている。しかし、青壮年の個族化や就業不安定化については、あまり問題にされていない。それに近いデータとして、大学卒の無業率の増大(2000〜2002年では30%を超えている。パート含む:学校基本調査)、若年有業者のうちのパート・アルバイト比率の急増(25〜29歳層で20年間に、357千人から792千人へと2.22倍になっている:就業構造基本調査)がある。 社会全体でみると、1990年代の後半に労働力人口(15歳以上の就業者と完全失業者)が減少し始めた(日本の総人口はまだ増えている)。その減少している労働力人口に対する就業比率が減っている。働く人の数は二重の意味で減少している。青年にとって、組織の中で働くというつながりが減っているので、社会とのつながりは薄くなっていると見られる。つまり、安定的な就業でなく、短期間で転々と変わっていく中では、強固なネットワークを築きにくいと考えられるのである。 孤立しやすい人々が増加する一方で、上記のような、全ての人々を包んでいたタテ型システムが弱まっていることによって、老・壮・青の世代間やそれぞれの同世代の間の、知的な相互交流が欠けやすくなっている。昔、地域社会の若衆宿のような仕組みが受け持っていた「三つのセイ(生=生きるための仕事の技術を身につける、政=大人として地域社会のまつりごとへ参加する知識を得る、性=好きな伴侶を得て次の世代を育てる知恵)」に対する教育機能が失われてきている。この仕組みは、明治以降青年団として組み替えられたが、工業化・都市化の中で若者が都市へ転出し、役割は果たせなかった。 <タテ型システムの弱まり> 老・壮・青の世代間やそれぞれの同世代の間の、知的な相互交流が欠けやすくなっている。 @親戚づきあいは、数が減り、距離も遠くなっている。 A兄弟姉妹も人数が減って、住んでいるところも遠く離れている。 B農村集落では、世帯数や家族人数が減ったこととも関連して、昔のような集落のしきたりが保てなくなっている。 Cさらに農村集落では、現代の仕組み(工業社会、核家族)から外れたために、結婚をしない未婚青壮年が増えている。 D都市周辺部の集落では、在来の居住者と新規移住者の関係がうまくいかず、自治会などの集落区への加入者が減るなど、コミュニティが損なわれている。 E都市内でも、人口の減少と老齢化のために、祭りなどの行事の維持が困難になっている。 F新しい住宅地でも、町内会などへの加入者が減っている。 G企業でも、年功序列制度が崩れて、年俸制が増えている。 Hと同時に、会社人間は評価されなくなり、タテ型の命令ではなく、自己責任で仕事を成し遂げることが要求されだしている。 ●地域による個族化のちがい 各地域ごとの比較をしてみたい(表紙参照)。ほとんど共通している特徴は、@人口はほとんど変化していない、A青壮年人口はヨコバイないしは微減、B青壮年のひとり暮らしは2倍ぐらいになっている、C青壮年の隠れた個族は2〜3倍ぐらいになっている、D55歳以上人口も2倍ぐらいになっており、高齢ひとり暮らしと、夫婦のみもそれぞれ2〜3倍になっていることである。ということは、この裏側にはE青少年(21歳以下)人口の大幅減があることになる。 少し例外はある(表ー2参照)。沖縄は人口が1980年から2000年の20年間に18%増えている。青壮年人口もそれ以上(31%)増えている。しかし青壮年のひとり暮らしは2.3倍、隠れた個族も2.5倍になっている。 ここまでのデータで不思議なことが言える。総人口や青壮年人口がほとんど変わっていないのに、青壮年個族や高齢者が急増しているということは、どこが減っているのかという疑問が起こる。 そのことを沖縄の例で説明してみる。 総人口は204千人増であるのに、青壮年と高齢人口が108+174=282千人の増加となり、約80千人の差が出ている。ということは、29歳未満の層でそれだけ減っているわけである。沖縄のように総人口が増えているところでも青少年人口の減少は著しい。まして、総人口がヨコバイや微減の県などは、一層大幅に青少年人口の減少が起きてい ることになる。 このことが10年後にどんな状況をもたらすのであろうか。20〜29歳までの層は、第2ベビーブーム世代を含んでいる。10年後はこの層は30歳以上になる。 ●個族がネットワークしやすくなるために 現代は、社会参加の教育が高校や大学に受け継がれているかのように見られている。だが、表面はともかく、実態としては高校や大学においてではなく就職後の企業によって、社会人としての躾や仕事をする技能、結婚の世話などが行われてきている。 しかし社会が個族化することによって、企業自体がそのような役割を果たせなくなり、また若者がその企業にさえ加わる率が低下しているという問題が生じている。青壮年が個族化する中で、ネットワークしやすくするには、「オセッカイ的な手段」と「サポート的な世話」が必要となっている。 オセッカイ的な手段というのは、社会人として出ていく前の、高校や大学というタテ型システムの時期に、ヨコ型ネットワークに加わるための訓練として行うべき「現代若衆宿」のようなものである。サポート的な世話というのは、社会人になって以後孤立しそうになったときに、社会へのつながりを求めやすくするヨコ型のサポートを行うものであり、それを「場力」や「ムラオサ力」などと呼ぶことにしたい。 これらの動きは、一部に見られはじめている。前者では、子どもへ社会のルールを身につけさせるための夏期実習塾として行われていたり、後者としては、伝統の祭りの継続のためや、ボランティア活動の拠点として現れている。このような動きを社会的に評価することによってモチベーションを高めやすくすることが必要であり、さらに活動が継続するために民間のボランティアが取り組む場合、その費用について経費を認めるというようなインセンティブが必要である。 「個族化社会のネットワーク形成」はNIRAの研究助成を受けたものである。今回はそのうちのサマリーに当たる部分を抜粋した。次号以降にも、データ編からの抜粋、アンケートやネットワークのことなどを掲載する予定である。 人口という指標は、言うまでもなく地域計画の基本指標である。個族も少ない方がいいにちがいない。10年、15年後を見据えた地域計画、各県計画の中でぜひこのテーマを考えてほしいと思っている。 しかし、この各都道府県のデータは紙面の都合で報告書にも掲載していない。興味があって御入り用の方はご一報いただきたい。FAXサービスでも考えます。 また、この研究の過程でいろいろな資料を見たり、データをつくりアンケートを行うなど、いろいろなことを考えた。それに興味があって議論をぶつけたい方も、御連絡をください。 (いとのり さだよし) |
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