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●地域の消費者、マチマチムラムラの人たちの消費 意識はどうなっているのか
最近、私の住んでいる町の隣の市にスポーツクラブが出来た。そこには、金とヒマを持っている高齢女性が、朝からたくさん来ている。残念ながら、そこは商店街から途切れたところで、隣に理・美容サロンがあるわけではない。もちろんエステティックサロンがあるわけでも、孫におみやげを買って帰る店があるわけでもない。田舎の街であるから、中心商店街といっても、通りの隣(裏側)には空き地はたくさんあり、駐車場もとれる。そもそも商店街側もスポーツクラブ側も、「まちづくり」全体を考える必要はないのかもしれない。
去年の秋、衰退している地方都市の人々と相談するために、出かけていって、一寸ちぐはぐで腑に落ちない気分を味わった。その街は、スーパーが入ってくるのを十年間拒絶したほど骨っぽい街であるのに、10年あまり前に量販店が2〜3店もでき、今度はそれが撤退してしまった。その内の一つは少し郊外側のクルマ型の立地に移ったのである。相談とは「スーパーがいなくなったこと」の対策についてであった。
衰退したのは「スーパーがなくなった」ことが原因だというのが、地元の、若手で元気があって、地域づくりの柱になっている人々の意見であった。私は「出て行って、無くなってしまって、1年も2年も経つということは、地域の人にとって今日現在のところ、“別にスーパーはいらない”という意思表示ではないか」とまでいってみたが、見向きもされなかった。「中心にはスーパーのような核がいる」という信念に基づいて、消費者の消費行動や気持ちはそっちのけで、一見もっともらしいビルの企画や採算性のようなものに、熱中し始めた。
ここでガックリしたので、そういうことなら、「消費構造がどうなっているか、徹底した実証データで、トコトン分かりやすい証明」をしてみようと思った。出来映えはどうか不安だが、以下に示すのがそのデータである。
●スーパーの衰退は、消費が伸びない商品ばかり追いかけていたから
スーパーが得意な分野は、@大量生産・大量消費に対応した分野で、A日常性のある商品、Bつまりは食料品、衣料品、家庭用品などである。この商品などに絞って消費動向を整理してみる。
データを整理してみて、我ながら驚いた。不景気といわれながら消費支出はずっとのびてきている。バブルの90年よりも、消費支出全体では、現在は一割ぐらい伸びている。一方、食料品や家具などは80年代以来伸びていない。被服などにいたっては、一時バブル景気はあったが、70年以来二割も減っている。
よく考えてみると、十数年前までは、仕事用のスーツは10万円以上が常識であった。今では、4〜5万円で二着などというのもある。それでは質が下がったのかというと、そうではなく良くなっているぐらいだ。ジャケットやワイシャツなども、半値以下になっている。その上、仕事着の感覚がラフになってきているので、「別に無理に買わなくても……」といった気分になり、衣料費の支出は大幅に減っている。おそらく婦人物も同様であろう。
表Aを見ていると、「スーパーさんご苦労さん」という気がする。人口が増える地域はともかく、減少地域では到底やれない商売だといえよう。上記の三商品を中心に店舗展開をしてきた地方の量販店が、その見直しに励むのは当然である。ここまで整理したわけではないが、このようなことはずっと前の「よかネット」にも書いている。このデータを見ていると、1980年頃に転換期に至っていることが分かる。バブルの頃には家具や衣料品は確かに増えているが、この分野は消費支出の11%程度であり、それも今では8%程度に下がっている。こういう状況の中で、一部商品のバブルに沸き、泡を盤石の岩と思いこみ、大規模投資に走って、その失敗のツケを国民全部に押しつけようとしているのが現在の経済政策である。
九州ではダイエーが、野球はともかく、店舗の方では調子が悪くて困っている。生活の中で、消費の比率が常に下がっている商品分野をベースにして、「もっと安く!!売り上げ!!売り上げ!!」と叫んでも、詮無いことであろう。
●物価や世帯の構造も変わってきているので、それ に合わせて考えてみる
家計消費を、一人あたりで見るのはおかしいのではないかと、お考えの方もあると思う。調査自体を「家計」として考えてきているデータを、見方を変えるには抵抗感もあったが、あまりにも世帯の状況が変わってきている。加工してみる方が、現状に近づけると考えた。その理由を述べてみる。
ア、世帯員数が大幅に減っている。1960年:4.51人、70年:3.98人、90年:3.56人、2000年:3.24人となり、七割程度も減ってしまった。(なお、家計調査の集計にも、このような配慮をしたと思われる「消費水準指数」というデータはあるが、その数値の作り方が分からない点もあったので、1人当たりで考えることにした)
イ、世帯主の年齢が、十歳ほど高くなり、世帯内の有業者も減った。
ウ、物価の変動については、消費支出のデフレーターで補正した。その物価水準のベースは、実感が必要だと思うので1995年とした。
エ、年次変化の基準年は、暮らし向きのエポックとなった年として1970年とした。しかし全般的な消費構造から見ると、75年の方がよかったかもしれない。
オ、念のために、1960年からの数値を、1995年価格・1970年指数で総括表に示した。(横長の大きい表をご覧ください)
私たちの暮らしは「大阪万博」のあった1970年から75年頃までに急速に豊になり、それ以降はかなり落ち着いてきているように見える。そのことは、食料費や住居費(家賃、地代、修繕費等)の支出で感じることができる。この基礎的な支出(実質)が、10年で五割増にも二倍にもなったのは1970年までで、それ以後はサービス支出の急増時代にはいる。
消費支出全体で見ても、1960年から70年にかけては66%も伸びているが、次の10年間では30%程度へと鈍化した。75年を基準に考えると、より一層はっきりする。つまり75年から85年の10年間では、15%程度の伸びになっている。この75年という年は、狂乱物価といわれた混乱のあとの年であり、土地が急騰した頃である。
食料品以外の「家具・家事用品」「被服及び履き物」への消費支出も、1990、91年頃がピークで、それ以降は大幅に減少に転じている。
●中心商店街は、どのように変わってきたか
中心商店街のこの2〜30年の歴史は、日本中どこへ行っても同じようなものである。40年あまり前に“スーパーという雰囲気”が流行りだした。間口二間ぐらいで、チャリンという金銭登録機の音をさせながら、セルフサービスタイプの店ができた。と同時にチラシ広告が宣伝の主流になり、私も「チラシは一円のセールスマン」などというコピーを書いていた。チラシにはSSDDSという横文字が書かれ、その方が商品名より目立ったりしていた(Self-Service
Dynamic Discount Store だったかな)。とにかく、アメリカへの視察旅行と講演会、チェーン展開が同時に動き出した。
すると、しばらくは手をこまねいていたが、すぐに「スーパー反対運動」がはじまった。冒頭に書いた衰退している地方都市は、スーパー時代が遅れてやってきたので、全国で問題が起こったのを見て、十年間スーパーを拒絶するなどといったことができたのである。
結局、消費者のことも考えねばならず、いつの間にか「スーパーを核店舗に」などということになっていった。スーパー導入を受け入れる引き替えにということで、アーケードが出来ていったが、消費者はアーケードがなくても、屋根や冷暖房があり一カ所で買い物が済ませられる大型店へ流れていった。商店街は空洞化し、シャッター通りと化した。
福岡県のF商店街へ行ったとき、空洞化した商店街対策として、市役所に「駐車場」づくりの要求を出していた。撤退したスーパーの跡地を駐車場にしようという考えであった。私は嫌われながら、「この商店街は、駐車場にクルマをおいて買い物に来てもらうよりも、一方通行にして、ゆとりが出来たスペースに駐車を認めた方がいい」といってみたが、自分の店が不便になる人もいるという理由で認められず、駐車場要求を貫徹した。結局、その駐車場はガラガラで、維持費が赤字で困っている。
ところがこの頃すでに、消費の動向は転換していたのである。
この30年間に起こったことは、家計調査によると、実収入が実質・1人当りで2.1倍になり(1970年84,714円→2000年177,756円、ともに95年基準)、消費支出が1.68倍になったが(1970年59,691円→2000年100,475円)、そのうちの食料費支出は、それほど増えなかった。したがって、食料費支出の比率を示すエンゲル係数は、34.1%から23.3%に下がったのである。
●人々の生活は、“モノ”から“世話をすることや知恵 を働かせること”の方向に転換してきている
生活の質を表す代表的な消費品目は、次の四項目である。それは2002年時点で「食料費」23.3%、「交通・通信」11.9%、「教養・娯楽」10.1%、「その他の消費支出」25.0%で、消費全体の約70%を占めている。
ア、食料費は、1960年前当時は41.6%だったが、大幅にシェアが下がった
イ、交通・通信は2.0%からシェアで4倍以上になっている(実質消費額は3.8倍)
ウ、知的サービスの消費を示す、教養・娯楽も約6%から約6割以上シェアを上げた
エ、生活全般のサービスを対象とする、その他の消費支出もシェアが拡大
オ、その他にも、「保険・医療」と「教育」のシェアが2倍以上になっている
これらのことで分かることは、@消費構造が転換したということ、Aそれが1970〜75年頃に起こったこと、Bそれ以降はそれほどドラスティックな変化は起こっていないこと、である。つまり75年以降は、費目間のシェアの大きな転換は起こっていない。この頃を起点として、いわゆる「ソフト化・サービス化」が定着したと思われる。
モノ売りについてはファッション産業といわれる「被服及び履物」でさえ、実質消費が30%近く減ってしまった。
●消費の柱は、生活サービスと知的サービス
「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれたのは1956年であり、その意味は国民所得の一人あたりの水準が、戦前のレベルに戻ったということであった。その後60年代から、「する、なる、なるようにする」(10年で所得倍増を説いた宏池会機関誌の論文)という状況をふまえて、高度成長を成し遂げた。東京オリンピック、大阪万博を経て、新しい日本の「クオリティオブライフ」にたどり着いたのが、「ソフト化・サービス化」の時代であり、それが75年頃に始まっていたことになる。(17頁の暮らし年代記60年・60年説参照)
・教育費も気になったが、子どもの数が激減しているので、偏ったデータになりはしないかと思って省いた
・「その他の消費」のウエイトが極めて高い。その主な費目をあげておく。理美容サービス・その用品(電動器具・かつら・ヘアピース・石鹸・シャンプー・リンス・化粧品など)、身の回り洋品(傘・カバン・ハンドバッグ・装身具・腕時計など)、たばこ、その他の諸雑費(神仏具・墓石・婚礼関係・葬儀費用・損保料・寄附など)、交際費、贈与金、仕送り金など
表Bを見て気になるのは、「その他の消費」のウエイトが75年頃から重要費目になっており、その後あまり変わっていないことである。この「生活の文化化」みたいな概念に当てはまりそうな支出が、高位安定してしまっている。一方、食料費はドンドン下がった。全体として、60年頃は食料品が主で、「生活サービス・知的サービス」の比重は小さかった。ところが、75年にはそれが逆転してしまう。つまりこの頃に、消費バランスの上から見ても、消費額から見ても、先進国型へ転換したと判断してよいのだろう。
今後、日本人は、天下がひっくり返るような変革がない限り、この生活パターンを変えることは出来ないだろう(変化に対応する許容能力もないのかもしれない)。とすれば、商店街は人々の消費行動を受け入れて、それに合わせたまちづくりに「構造改革」をしなければならない。
どこの中心市街地を見ていても、モノ売りという点では、長い歴史の間に形成されたために、一応のまとまりはある。しかし、サービス業は、はずれや隙間に入ってきているような感じがある。
消費の主力をなしている「ソフト化・サービス化」支出を、「商店街の柱」に据えたような、まちづくりが出来ないだろうか。人々の消費行動はモノから時間をかけることへ移っている。
女性の美容院での支出は、5000円から1万円。若い人の中には、昼食は300円のコンビニ弁当で、爪に変なモノを貼り付けるネイルアートというものに、両手で1万円も払うらしい。“アート”なんだからお金もかかる。
「荒利」で考えてみると、これらのことも納得がいく。以下に総額・荒利額・時間・1時間当たり荒利の順であげてみる。
総額 荒利額 時間 荒利/H
・コンビニ弁当 300円 100円 2分 3,000円
・ネイルアート 10,000円 9,000円 60分 9,000円
・美容院 7,000円 5,000円 60分 5,000円
・スーパー 3,000円 450円 10分 2,700円
以上は私が適当に上げてみたもので、見当違いもあるかもしれない。しかし、モノ売りよりサービス業の方が稼げそうである。時間当たり荒利が高いということは、家賃負担力もあるということであろう。商店街の業種構成も見直す必要があるのではないか。
●もう一度、周辺の町や村とネットワークを強め、マ チマチムラムラの中心としての役割を復活させよう
戦後の中心市街地の商店は、市街地周辺や町や村の人たちの作った農水産物や製品を仕入れてスタートし、市内や周辺町村の人々を客として栄えてきた。そのうちに、購買力・販売力が上がるにしたがって、商品の仕入先は広がっていったが、売り先は変わることなく、周辺の人々であった。
スーパーなどの大量販売店は、販売力を強めるために、仕入れ先を大産地・大量生産工場や商社に求めはじめたので、地域の人や周辺町村の人々は、単なる「売りつける客」だけの位置づけになっていった。と同時に「量販店はどこへ行っても同じモノを売っている」と言われるようになった。 一方農村でも、大量生産に乗るために、ミカン農家が「野菜はスーパーで買って食う」などということさえ起こっていた。ところがそれらの商品の仕入先は、中国や東南アジアの比重が増していく中で、「安全・安心」というテーマが重視されるようになった。
最近都市郊外の農村では、「直売所」が大流行である。
今まで、地域の中心市街地が経てきたプロセスを、四幕のシナリオにして見たい。
〇第一幕は、300余藩が土地柄・人柄を生かして、自立して生きてきた時代。自給自足をベースにしながら、地域の特産振興に心がけ、地域外から稼ぐために移出産業を育てた。中心市街地は地域のヒト・モノ・カネの集散地になり、地域の人々の暮らしを支える柱になっていた。
〇第二幕は、明治維新ごろから昭和20年までで、在来産業で稼ぎながら近代工業を導入した時代。工業に従事する人も増えたので、自給自足ができない世帯が急増し地域商業がいっそう重要になった。周辺の物産を集めて売るだけでなく、祭りや遊びの中心としても役割を増した。ヒトが行き交い、モノが集って捌け、カネが動いた。
〇第三幕は、戦後から現在までで、大量生産・大量消費社会である。この間に日本は、規格品量産技術で世界に冠たる力を示し、モノつくりをベースに世界一豊かな(物質的に)国つくりをした。しかし80年代以降は、モノつくりでは、アジア各国から追い上げられている。この間に中心市街地は、ヒト・モノ・カネの集散基地から、モノの配給地になってしまった。
〇第四幕は現在以後の話。中心市街地は、第三幕の終わりごろにモノの配給基地としての機能も、スーパーが郊外に出てしまうことによって失った。今後はもう一度マチマチ・ムラムラの人たちとのネットワークを強め、安心できる食べ物・品物を提供し、街の性格もサービス業を強化することによって、人々が行き交うマチ(待ち)にする。
●私たちの提案は、人もうけ型のまちづくり
私たちの提案は、一口で言えば、消費データを見る限り「中心市街地は、その周辺の人々と、ヒト・モノ・カネを通じたネットワークを強める以外に、生きる道はない」ということである。といっても「具体的にはどうすればいいのだ」という声が聞こえてきそうである。
確かに、立地条件の違いによって、あるいは10年後の予測によって、とる手段が違ってくる。
@中心市街地の圏域人口は、10年後どうなっているか
A人口が増えるのか、今後減少するのか
B10年後の年齢構成はどうなっているのか
C交通体系は今後どうなるか
Dこの町は現在何で食っているか、10年後は
などをふまえた上で
E10年後、このまちや周辺の人たちは「何を求めるだろうか」ということを見定め
Fそれらをベースに地域の人々が寄り集まって、業種や配置などを含めて、可能な計画をたてる
ということが必要になる。
地域の産業おこし、商店街の活性化、空きビルや低未利用地の活用方策、少子高齢化対策など、地域のさまざまな課題を解決していくためには、地域づくりに係わるいろいろな専門家の知恵の集まりがいるということで、3年前に鰍謔ゥネットをはじめ、9社で協同組合を設立しました。
協同組合の活動については、前号(NO.64)の“ぶどうの樹視察研修”でもご紹介しましたが、長い間まちづくりに携わった仲間がたくさんいます。
このように、中心商店街などの活性化をはじめ、地域づくりで問題をかかえていることなどがありましたら、鰍謔ゥネットと(協)地域づくり九州のメンバーが相談にのります。その内容は、
@上記のデータを、その街に基づいて整理し直す こと
A顧客像や街づくりの目標像を明らかにする
B現状の業種構成について、地域の方々と一緒に 検討すること
C@のデータを参考にしながら、皆さんと一緒に とりあえず考えられる街の業種構成を決める
D今までの考えは、とにかく「スクラップアンド ビルト」ということで壊すことから始めた。私 たちは、@〜Cまでの検討を下にして、可能な 街の構成を考えてみたいと思います
私たちのメンバーには、まちづくり・マーケティング・不動産・財務会計・設計・店舗計画・経営診断・商店街計画などのメンバーがいますので、協力してサポートしてきたいと思っています。 (いとのり さだよし)
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