<よかネット>No.63 2003/5
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大牟田の近代化遺産を見て回る
           山田 龍雄

 昨年度、大牟田市のある地域における住環境の事業可能性の調査の一環で、担当であった辻氏らと一緒に市内の古い住宅地を見て回わる機会があった。そのとき調査に関係するところ以外に、西南の役の官軍側の野戦病院で亡くなった人たちのお墓(南関町)などを案内してもらい、地域の歴史や史跡を教えていただいた。非常に博識な方なので、機会があれば、もっと大牟田市の史跡等を案内していただけないかと思っていた。
 そこで、4月19日(土曜)に「大牟田市の近代化遺産を見て回る」という企画をお願いし、当社所員や市職員をはじめ10数名で勉強させていただいた。今回、見て回ったところは図のとおりである。昼食も含めて7時間を要した内容の濃い見学会であった。
 ちなみに「日本地名大辞典」を紐解くと、三池炭鉱は、明治5年から官営化し、国策として生産量拡大のため、洋式採炭を導入し、飛躍的に採掘量を伸ばしばしたと記されており、この期間に稲荷山岩戸坑、大浦斜坑、七浦竪坑、勝立竪坑、宮浦竪坑と次々に新たな採掘場を開拓し、生産規模も約1万4千トンから45万4千トンと約33倍に増加している。
 今回、見学した宮浦坑、万田坑の大規模な巻揚機や竪坑などをみると、石炭産業が明治、大正、昭和の30年代まで日本のエネルギー、産業の基盤となっていたこと、あるいは当時の技術者の熱意みたいなものが、実感として伝わってくる。

●なかなか充実している石炭産業科学館
 まず始めに大牟田市の全般的な石炭の歴史と近代化への歩みを勉強しようということで、石炭産業科学館の館長さんから約1時間ほど説明していただいた。
 施設内には400mのところにある有明海海底の採炭場まで一気にエレベーターで下るような仕掛けがあり、実際に採掘していた最新式の採掘マシンが動き、ダイナミックな採掘現場を体感できる。
 しかし、この施設は、大牟田市活性化の一大事業として取り組み、破綻したネイブルランドと一体的なものとして建設されたため、西鉄大牟田駅の東側埋め立て地の東端、駅から約2qと離れている。また、周辺は荒涼とした埋め立て未利用地が広がり、現在はバスも通っていないということもあって、年間利用者は1万5千人という。(ネイブルランド開設時の年間利用者は10万人)これも大牟田市や周辺市町村の小・中学生の見学旅行が多いということであるから、一般のお客さんは半分も来ていないのではないかと思われる。
 結構お金もかけて、中身も充実している施設ではあるが、お客さんが少ないというのは非常にもったいない。大牟田市の近代化遺産の見学と併せて、何かお客さんを少しでも増やしていく工夫を、市職員や住民の人たちと一緒になって検討していくようなことができないかと思う。
イギリスのウェールズにある炭鉱博物館での体験をしてきた当社の所員に聞くと、そこでは炭坑夫の格好をしたおじさんが案内してくれ、実際に坑道まで降りて本物の坑道を体験でき、また坑道の一部を改造してバーチャル型のトロッコ(その場で激しく揺れて、映像で走っているような気分になる)に乗ることもできるような楽しい仕掛けがあるそうだ。大牟田の石炭資料館も、イギリスまでいかなくても、もっと楽しいエンターテイメントな仕掛けや、一部でも実物のものを見せるというような工夫があっても良いのではないかと思った。(イギリスの炭鉱博物館の話は「よかネット42号」掲載)

●懐かしい駅舎跡の佇まい
 地図からわかるように、主な炭坑は市街地の周辺にあって、そこで採掘した石炭を三池港まで輸送するため、あるいは従業員の通勤手段として、三池炭鉱鉄道が明治24年(七浦〜横須)から明治38年(三池港まで延長))までに市街地を取り囲むような形で敷設している。
 この専用鉄道は、昭和59年9月に玉名支線(原万田駅〜平井駅4.1q)と従業員を対象として行っていた旅客輸送を廃止したとされている。したがって、廃止になって20年近く駅のホームがそのままの状態で所々に残っており、今でもお客さんを待っているかのようにひっそりと佇んでいる。何とももの悲しい思いがつのるが、筑豊炭田全盛期に育った私にとってはどこかなつかしい風景でもある。
 この駅の一つである「宮内(くない)駅)」では、周辺住民の方々が愛着と思い入れがあるためか、清掃管理を行っており、雑草もなく非常にきれいになっていた。道路を挟んで向かい側が広場なので、駅ホームを舞台にしたカラオケ大会や演芸会が十分できるのではないかと思った。

●与州会館とは?
 見学するときに、用意していただいた荒尾市と大牟田市を合わせた地図を見ていると、文化財専門員の山田さんが、「この地図の三池港南側に、まとまった炭住街があります。ここは与論島から来て炭鉱で働いていた人の炭住街です。」ということを教えてくれた。そこで、何で与論島からわざわざ三池炭鉱まで来たのかを聞くと「明治時代に与論島に台風が来て、このとき家屋等の財産をなくした人たちが炭鉱に稼ぎに来ていたらしいが、それ以上の詳しいことはわからない」とのことであった。炭鉱の地には全国から職をもとめて人が集まってきたというけれど、与論島から来ていたというのは驚きである。
 与論島の人たちの炭鉱作業の賃金は、通常の人より安価であったらしく、このためにも隔離した炭住街を形成していたのではないかとの説明があった。これも炭鉱の歴史の“負”の部分の一つである。この与論島の人たちの話し合いや集いの場として、炭鉱住宅の一つを集会所として改造した建物と「与州会館」という看板が、今でも住宅地の中にひっそりと佇んでいる。今はかなり朽ち果てているが、これも炭鉱の貴重な遺産であり、なんとか保存・活用できないかと思う。

●石炭隆盛時代の偉大さを伝える万田坑
 万田坑は、わが国で唯一炭鉱施設として重要文化財に指定されたものである。直径が2m以上あろうかと思われる巻揚機、コンクリートで埋めらていない第1竪坑口は深さ273mあり、竪坑口の上には鉄製のネットが被されれているだけで、上に立つと足がすくむ。
 パンフレットによると、万田坑では明治35年に第1竪坑に英国製の巻揚機が設置されたと記されており、以後、平成9年まで約100年近く稼働している。また、明治40年頃の写真を見ると、竪坑から炭坑夫が下に降りるためのゲージ横に並んでいる炭坑夫たちは、設備は近代化されているのに比べて、服装が法被に褌姿というアンバランスな雰囲気になっており、産業近代化に追いついていない日常の暮らしがかいま見えて面白い。
 また、万田坑では、現在、会員約80名の「ファン倶楽部」が結成され、清掃活動や万田坑を使ったコンサート、撮影大会、炭坑の歴史を語る会などのイベントなどを行っている。
 先にも述べたが、今回の見学では、すさまじい勢いで近代化していった明治という時代を炭鉱遺産から体感でき、非常に面白いものであった。これは、詳しい方の説明があったからこそ、感動できたのだと思う。
 他の人に炭坑見学を奨めるとしても、詳しい説明があることが必要だろう。このような見学コースを組むとしても、やはり炭坑の歴史などに詳しく近代化遺産ガイドみたいなことが出来る人を、いつでもリクエストできるようなシステムがあった方がいいと思う。
 そうすれば、明治という時代に興味のある方や他の炭鉱町で暮らしたことのある人などは、大牟田近代化遺産を体感してみたいと思うのではないだろうか。        (やまだ たつお)









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