|
筑後川流域の人々の生活はかつて川と密接な関係にあった。水車などによる利水技術によって筑後平野の田畑に恵みをもたらしたのみならず、水運のためのインフラとして人々の生活に密着していた。
しかし、輸送は今や陸路に変わり、時に猛威をふるう筑後川に堤防を築いたことによって人々は隔離され、川に背を向けて生活するようになった。
地方シンクタンク協議会九州・沖縄ブロック交流会が2月21〜22日に開催された。「地域のネットワークを活かしたまちづくり〜河川流域連携を事例として〜」と題して、筑後川流域連携倶楽部の取り組み、なかでも実践的な「筑後川まるごと博物館」の取り組みについて同倶楽部理事西島氏、同博物館事務局長成毛氏のお話があった。
●そもそもなぜ流域連携を思い立ったのか。
・流域連携を思い立つまでに3つの大きな流れがある。
・1つ目の流れは、大川に始まった「筑後川フェスティバル」である。筑後川の上流に西日本有数の杉産地「日田」がある。下流には同じく西日本有数の木工産地「大川」がある。両者はかつて、筑後川の水運で結ばれており、日田で伐採された杉は川舟によって大川に運ばれていた。当時、両者は水運を通じて密接につながっており、ともに栄えていた。しかし、輸送の中心が陸路に推移するとともに、木工の材料が90%以上輸入材となり、両地域の川を介した経済的つながりは途絶えた。後に流域の人々と川との関係が希薄になり、河川への関心が低くなった。そこで環境の点、地域振興の点から、かつてあった絆をとりもどそうという取り組みが始まったのが筑後川フェスティバルの発端である。毎年流域市町村等で開催され、今年で16回目を迎える。
・2つ目は下流域に立地する久留米大学産業経済研究所で始まった筑後川流域圏の総合的な研究である。同倶楽部の代表を務める久留米大学駄田井教授が研究会の中心人物であった。流域の各々の地域ではそれぞれどんな課題をもつのかを探っていくうちに流域圏研究会がうまれた。
・3つ目はダム問題を抱える日田市で始まった「水環境セミナー」である。成毛氏が代表を務める「日田市民セミナー」が主催していた。日田市上流にある「下筌ダム、松原ダム」から導水管によって福岡都市圏に水を送るというダム群連携構想が計画され、水量が大幅に減少するという危機感から河川の水に関心を持つ機会が増えた。それがきっかけで筑後川がもたらした流域の自然、風土、文化にはどんなものがあるのか、それらを支えるどんな活動団体があるのか、調べようということになった。後にこのセミナーは上記の流域圏研究会と共催になり、研究の成果をさらに高めていった。
・ちょうどこの頃、流域圏の活性化を目指すイベントである筑後川フェスティバルと流域圏研究のかけはし的な位置にいたのが先述の駄田井教授であった。駄田井教授は両者をつなぐような組織、すなわち流域圏の自然、風土、文化を保全し、経済、社会の活性化も図れるような組織ができないだろうかと考えていた。そのためには流域の連携が不可欠ということに行き着き、「筑後川流域連携倶楽部」を設立することになった。
・同倶楽部の設立に当たって、このほかにも重要な人物がいる。柳川市で掘割の復活に取り組んだ故広松伝氏である。広松氏の取り組みは水や河川に対する住民や行政の考え方を180度変えただけでなく、法律までも変えてしまった。それまでの河川法は「利水・治水」を軸としており、河川はあくまで道具であり、やっかいものにすぎなかった。しかし、柳川の堀割活動によって人々の河川に対するその考え方を「川を守ろう、美しくしよう」と変えたとともに河川法も「環境・住民参加」を主眼とした新河川法に変わるきっかけとなった。
※柳川の掘割についての詳細はよかネットNO.3(1993.5)、NO.54(2001.11)参照
・かつて堀割は輸送に欠かせなかったほか、その水は飲用にもなっており、筑後川と同様、生活に密着していた。しかし、人々が水に背を向け て生活するようになったことで堀割への関心が薄れ、汚染が進むようになった。昭和40年頃から、全市をあげて浚渫するようになった。堀割の大切さを訴え、住民総出で浚渫作業するなど、自ら携わったことで堀割に対して愛着を感じ、 結果堀割を美しくしようという意識が住民の中に芽生えた。
筑後川流域連携倶楽部はこれらの活動団体のヨコのネットワークを強めるため、2か月ごとの新聞、年4回の機関誌を定期的に発行し、情報交換に役立てているほか、地域を潤し、地域活動への関心を高めるエコマネーの取り組みなども行っている。そして、同倶楽部が流域連携倶楽部の目的を具現化するために取り組んだのが、「筑後川まるごと博物館」構想である。
●九州4県にまたがる筑後川まるごと博物館
・筑後川まるごと博物館は筑後川流域全体を“ひとつの大きな博物館”としてとらえ、上流から下流までの自然、風土文化、産業等を体験交流できるようなシステムづくりである。同博物館のおもしろい点は「学芸員制度」である。久留米大学で「まるごと博物館学芸員」の養成を兼ねた「筑後川流域講座」を開講している。学生及び一般の方を対象にしており、参加は自由である。このほか流域のフィールドワークや地域の活性化など博物館をより高度なものにするために活躍している。
・第一期の昨年は学生104名、一般50名が受講し、論文、面接の審査の上、22名に学芸員の認定証が授与された。学芸員になると地域ガイド、総合学習の支援のほか地域イベントの手伝いなど様々な場面で活躍することになる。
まるごと博物館には地域の風土、文化の継承、自然の保全、活性化に携わる活動団体が数多く加盟している。なかでもおもしろい活動のひとつを紹介する。
●水の流れとともに発展した小鹿田焼のシステム
<小鹿田焼窯元、坂本茂木氏>
22日の視察では小鹿田の坂本茂木さんに小鹿田焼の現状についてお話をいただいた。
※小鹿田(おんた)(大分県日田市)についての詳しい内容は、よかネットNO.17(1995.9)参照。
・小鹿田を囲む山々には小鹿田焼のもととなる陶土が豊富にとれる。また、日田は杉の山地であることから、多くの製材所があり、木材の切れ端を窯に使用し、灰は釉薬(ゆうやく)に使用する。さらに土を細かく砕く動力は水の力(水車)であり、轆轤(ろくろ)は足の力である。材料から動力までほとんど地域でまかなうことができるのが小鹿田焼の特徴である。
・小鹿田の陶土は保水力が強く、乾燥するまで1ヶ月ほどかかる。乾くのが早ければ機械などを
〜小鹿田(おんた)焼民陶の由来〜
小鹿田焼(別名皿山焼)は、宝永2(1705)年に小石
原村の柳瀬三右衛門が技法を、大鶴村の黒木十兵衛が
資金を、小鹿田の仙頭、坂本家が土地を提供して開窯
したと伝えられる。
李朝系の焼き物で、主な手法に飛かんな、はけ目な
どがある。昭和26年柳宗悦(民芸学者)、同29年に英
国民芸家バーナード・リーチ氏の来山により広く知ら
れるようになり、同45年国の文化財の指定を受ける。
(パンフレットより抜粋)
導入して大量生産できたかもしれないが、それができない。また、保水力のある周囲の陶土は安定的に水を流し、枯れることがない。その枯れることのない水を利用したのが陶土を練る唐臼である。今思えば、近代化できなかったことが、逆に小鹿田ブランドを残すことにつながった。つまり小鹿田焼は“自然に守られた”ということだった。
近年、道路がよくなり、観光バスで行き来ができるようになって観光客が増加し、ほとんどの窯元の家もきれいに建てかわっている。あるカメラマンは「集落の家々が小ぎれいになり、絵にならない」とまで言ったそうだ。いかにも皮肉な現状だ。
坂本さんの話では小鹿田焼の昔ながらの製法に我慢してこだわってきたわけではなく、そうせざるを得ない小鹿田の陶土の性質があったということだった。大量生産こそ良いとされた時代が終わり、少量生産で、昔ながらの製法であることが小鹿田焼の価値を高める結果となった。
●持続可能な地域連携の秘訣は?
筑後川まるごと博物館の良さは“いいかげんさ”と思う。会費は払うが、定期的な会議などは設けていない。裏を返せば、各団体がそれぞれ必要なときに、このネットワークを活かした取り組みができるということだ。この“いいかげんさ”が4県(上流より熊本県、大分県、福岡県、佐賀県)にまたがる広大な地域連携を保ち、博物館が継続することにつながっているということだった。
(おだ こういち)
|