<よかネット>No.61 2003/1
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所 員 近 況 |
| ■ハーブガーデンと日英グリーン同盟 福岡盲学校でハーブガーデンを作るワークショップを行ったレポートは前々号で紹介した。その後、工事に入り、11月のオープニングと記念植樹に間に合わせることができた。 花壇づくりは、雑草の上でのレベル出しから始まって、砂利と空練りのコンクリートを敷き、水糸に合わせてブロックを水平に並べて基礎を作る。基礎の上にはバーナーで焼き目を付けた角材を腰の高さまで組んでいく。組んだ角材の内側には、土留め用にコンクリートのテストピース(強度を測るための円柱形のもの)を並べ、その中に土と堆肥を入れてハーブを植える。 花壇で囲った内側の広場はでこぼこの雑草地だったが、車椅子でも入りやすいよう土を入れて整地した。 入口にはアーチ、花壇の一角にはレンガでバーベキュー用の窯を作った。窯はハーブ入りのパンを焼くためのパン窯も兼用できる。 簡単に書くとそういう感じだが、大半はスコップと一輪車と人力での作業なので(といってもたまに重機も使うが)、結構な労力だ。天気もいいとは限らない。工事はもちろんグラウンドワークのメンバーや盲学校の関係者を中心に自分たちで行っている。 土日を使っての作業だが、毎回自主参加で進めたため、集まったり集まらなかったり、進まない日もあれば手が余る日もある、という感じで仲々予定通りに行かなかった。この辺は、ボランティアでやる場合の難しいところだろう。(ボランティアという言葉は、人によって受け止め方に差があるので最近使いにくい。ここでは自主参加の意。) それでもイベントが間近に迫ってのラストスパートが効いて、ほぼ完成した。広場の中央には、会員の工務店関係者の協力で、東屋を建てた。協力というのは、つまりは寄付していただいた。全体でかかった費用は、ほとんど材料費、機材のレンタル、弁当代といったところだ。 ところで、腰の高さの花壇は、車椅子の人でも楽しめるようにとデザインしたものだが、出来てみるとかがまなくていいので、視覚障害者はもちろん、高齢者も使いやすいし、我々も使いやすい。そもそも、ハーブが伸びてくると、鼻の近くまで届くのでにおいやすい。 ハーブガーデンのオープニングと同時に、記念植樹が行われた。今年は日英同盟の100周年ということで、英国大使館などの主催で「日英グリーン同盟」事業が進められている。これは植樹を通して人と人との交流を促進しようというもので、英国で木の王様といわれるオークの苗を植樹する。植樹は全国で171ヶ所が予定されている。 オークは一般的には樫と訳すことが多いが、実際にはナラ科の樫・柏の総称で、イングリッシュ・オークは実や葉の形状から柏に近いようだ。 実は福岡盲学校の校章のデザインに使われていたのが、柏の葉だった。そんなつながりもあって、イギリスのグラウンドワークのスタッフ、英国大使館の などが植樹に来ることとなった。 柏の木は、花壇と一緒に広場を囲むように3本植えられた。数年後(数十年後?)には大きな木陰を作っているかも知れない。 ハーブガーデンは学校の校門近くの広場にあるが、学校としても地域の人たちに来てもらって、たくさん利用して欲しいとのこと。学校施設の地域開放という意味でも、新しい道ではないかと思う。特殊学校は地域とのつながりが薄くなりがちな面があるので、特にそうだろう。 ところで、グラウンドワーク福岡は12月にようやく特定非営利活動法人を取得しました。今後は委託事業等も受けながら、活動の幅を広げていく予定です。 (伊藤 聡) ■マルクスさんとの対話 その@ 落ち葉掃除のために、竹製の熊手型とホウキグサ型の箒を買った。それぞれ一本ずつではあったが、合計340円だった。あまりに安いので「え!どうなっているの」と聞き返してしまった。 その足で散髪屋に行った。入ると、客待ちの椅子に、よく見たわけではないが、私よりは少し年輩と思える方が座っていたので、少し待つつもりで、近くに座ろうとしたら「どうぞ」と言われて見返した。すると少し荷物を片づけて出て行かれるところだった。その間の会話に“櫛”という言葉を小耳に挟んだので、聞き耳を立てていたら、「山中さんのハサミは……」とか「あの人は自分で作くっとるけん」とか言う言葉が聞こえてきた。 どう見ても鍛冶屋さんには見えなかったので「ハサミ屋さんですか」とたずねた。 「ハサミを売りに来ていたんです。あの人は自分でつくっているので、いろいろ言っておくと、次の時にはそのことに答えて、ハサミを作ってくるんです」 「どこの人ですか」 「大阪の方です」 「いくらぐらいするんですか」 「ハサミは5.〜6.万で、いいのは7〜8万です。櫛は一本7千円」。ここらで、櫛を買うという興味はなくなっていたが、店の人たちのそのハサミ屋さんに対する信頼度にひかれてしまった。 「大阪って、東大阪ですか」と少々知ったかぶりで尋ねたら、領収書のようなものを見せてくれた。河内長野市であった。その後ずっと、そのハサミ屋さんのことを聞いていた。「あのハサミを使ったら、ほかのは使えん」、「あの人は、ランドクルーザーをどこかに預けていて、それで九州中を回っとる。明日は大分へ行くらしい」、「注文すると明日にでも宅急便で届く」、「おそらく、ケイタイですぐに連絡するのだろう」等々。「このハサミは7千円で、今買ったところですから、お客さんが使いはじめですよ」と言われながら、ひょっとすると私が使えないケイタイのメールも使っているのかな、などと思って聞いていた。 河内長野市は、爪楊枝の生産では95%のシェアだと聞いていたが、ハサミも凄いようだ。 <ところでマルクスさん> 「私もずいぶんあなたにかぶれて居たんですが、箒を作る人とハサミを作る人の労働の価値はどこが違うんですか。ハサミ屋さんについては、店の人が“気持ちを分かって作ってくれる”なんて言ってましたが、工場の方でコンピューター制御機械を、2〜3分手入れしてスイッチ押すだけかも分かりませんよ」 マルクス「いやあ、偉いことになってますなー」 「あれ、あんたは語学も天才やったらしいですが、関西弁もできますのか。労働価値説ではどう説明するのですか。どうもあなたの学説は筋肉労働に重点を置きすぎたのじゃないですか。私はいろいろな仕事をやってきましたが、勘のいい人と悪い人では大変な差です。計画の仕事などでも、感と集中力の差で、何時までも仮説が出てこないと、それこそ比較にならないぐらいの差が出ますよ」 マルクス「なるほど、今じゃパソコンをうまく使う人もいるようですなあ」 「私に向かってそんな皮肉言わんでも。人間ゆうたら、あなたの200年ほど前のパスカル言う人が「考える葦」やと言ってはりますなあ。筋肉労働やなしに“脳細胞労働価値説”と言われたら好かったのやないですか。次までよう考えておいてください」 <蛇足>大阪方面のみなさんへ 私も行ってみたいと思っているんですが、興味はありませんか。「山中」という名前もあのセールスマンのものなのか、社名なのかも分かりませんが、河内長野ぐらいなら分かると思って確かめていません。それでも、“職人の気持ちまでくんで作る職人ども”の集団なんて気持ちがいいですね。 (糸乘 貞喜) ■懐かしいふたりに思うこと 1990年の9月、学研都市セミナーに当時京都府の商工部長だった小堀さん(現在京都府商工会議所連合会専務理事)を講師に招いて、けいはんなのハイタッチリサーチパークの話をしていただいた。目的は、当時お手伝いをしていた九州北部学研都市構想の推進の中で、地元の中小企業が研究開発をどういう形で進めていけば良いのかを研究し、具体的に研究会を立ち上げようということだった。 セミナーの後、翌年の1月には地元の企業さんたち10数社による研究会を発足させ、紆余曲折の後、1994年3月、宗像市に「アスティ21」というリサーチパークが完成し、現在は福岡の地場企業5社と看護大学が立地している。 昨年の秋、このプロジェクトの立上げ時から実現までの間、知恵を出し合い、協力をしてもらっていた九州大学の森永先生とゼネラルアサヒの山口さんのお二人が、相次いで亡くなった。 森永先生は、地域のために大学の研究者としてプロジェクトに対する助言や指導をしていただいただけでなく、「NEXT ONE、WHAT NEW」の大切さを教えてもらった。山口さんは、地場企業の立場からプロジェクトに対してどういうサポートが必要か、どうすれば企業は賛同するか、についていろんなアイデアを出してもらった。そんな二人に共通していたのは、立場は違っても地域を良くしたい、元気にしたいという「思い」であった。 二人とのやりとりを思い出しながら、日頃我々が仕事をする時に忘れてはならない「地域への思い」の大事さを、いま改めて噛みしめながら、今年もがんばろうと思っている。 (山辺 眞一) ■一族のルーツを訪ねて〜謎はさらに深まった〜 我が家には、ルーツを示す一枚の紙がある。それには、長崎奉行所へ勤役した先祖の名前と勤役年数の一覧が書いてある。いわば系図を示しているものである。祖父が書き写してきたものらしく、それ自体はやたら古いものではない。しかも青焼きなどでコピーしたものも数枚ある。 最初に書かれてあるのは伊藤雲理斉(うんりさい)という人で、元亀2年(1571)から始まる。秋月から長崎へ来たらしい。我が家ではこの人を初代としている。次の伊藤久右エ門が慶長9年(1604)に役を仰せ付けられ、寛永6年(1629)まで勤役26年とある。それから同様に15人の名前と勤役年が並ぶ。一覧の中の最後は隆次郎という人で、明治2年(1869)までとなり、後は明治維新で職を失っている。その次は私の曾祖父であり、仏壇に写真もあるので実在は間違いない。これからすると、私の父は18代目、私が19代目、5歳になる息子が20代目となる。約430年で20代であるから、1代当たり平均20年ちょっとで、だいたい合っていると思う。 明治後期に曾祖父が炭坑で栄えていた筑豊の直方に来た。現在の伊藤家の墓は祖父の兄弟で直方市の西徳寺に建てたものがあるが、それまでは長崎市寺町の三宝寺というお寺にあった。 私の祖父は1902年生まれ(日英同盟の年)で、亡くなって10年以上経つが、今年が生誕百年ではある。そんなこともあって、ここ数年、一族でルーツ話が盛り上がっていた。 長崎の墓参りは、数年に一度誰かが行くか行かないかという程度だった。そこで、みんなで墓参りしよう、それと、三宝寺に行けば祖父が書き写したとされる家系の表の元資料が分かるだろう、ということで、親族一同で長崎ツアーを行うことにした。 福岡県内在住が多いのだが、東京方面にいる親族もおり、何人か欠席したものの総勢15名のツアーとなった。最高齢は祖父の妹で82歳、下は私の娘で生後6ヶ月という、4世代での旅行である。 長崎の寺町は古く、道も狭い。墓地は寺の裏の斜面一帯にあるが、坂道はきつく、入り組んで迷路のような所である。ただし、眺めはよい。 私自身は8歳の時に一度、そして5年ほど前に1人で出張がてら来たことがある。前回は、小さいときのイメージを頼りに探したのだが、結局お寺で場所を聞いてたどり着いた。着いてみれば、やはり小さい頃のイメージと同じだった。しかし今回行ってみると、5年ほど前の情景が強く残り、小さい頃のイメージは自分の中で薄れていた。余談だが、北朝鮮の拉致帰国者が地元の人よりも昔のことをよく覚えていた、という話は実感として分かる。最後のイメージが最新のイメージだ。 墓石の数年分の雑草とコケを落として、お参りをし、その後お寺を訪ねた。 三宝寺の住職は代替わりをしており、昔のことを詳しく聞くことはできなかった。その代わり、事前に連絡しておいたので、過去帳を見せてもらうことができた。過去帳には、いつ、どこの誰が亡くなったかが記されていた。たまに何歳か書かれてある。しかし、住職によれば、寺にある過去帳はおよそ260年分だという。約400年の伊藤家の資料の方がさかのぼっているではないか。昔のお坊さんは、過去帳は自分用で、寺を変われば過去帳も持っていったらしい。 過去帳の名前は基本的には戒名だが、俗名や家長らしき人の名も書かれてあったりするので、それが手がかりになる。先祖は市内の桶屋町に住んでいたことが分かっているので「桶屋町・伊藤」を探せばよい。 ところが、過去帳は葬式を行った順に書かれていて、和紙は破れそうで、文字は時に読みにくく、しかも資料は膨大である。めくってもめくっても「桶屋町・伊藤」はそう簡単には出てこない。いくつかは見つけたものの、こちらの手持ち資料は直系の男子の俗名と勤役年だったので、直系以外も含めた戒名と死亡年をみつけても一致は難しい。ちょっとお寺によって過去帳を見たくらいでルーツが判明するなんて、到底無理であることが分かった。(実は、実家の仏壇の中に一族の亡くなった年と戒名の一覧があり、これと一致する可能性はある) 過去帳をデータベース化しないんですか、と無駄なことを聞くと、「データ化したものはいつまで使えるか分からない。結局、長い目で見ると紙の方が確実に残ります」とのこと。それはそうだ、百年単位なのだから。 結局、書き写したとされる、奉行所への勤役の資料はお寺では分からなかった。郷土史か何かの資料としてあるのだろうか。 住職の話では、長崎は原爆のため資料も相当焼失したらしい。過去の資料がどこまで出てくるかは分からない。ただ、祖父が系図を書き写したのは戦後のようだ。 我が家のルーツ探しの旅は続く。 (伊藤 聡) ■広報担当をきっかけにいろんな出会い、体験をさせてもらっている。 前号の「ある青少年育成団体に所属して思うこと」にも書いたが約900名のある団体の機関誌の広報を担当することになった。本誌よかネットの記事を執筆、編集にこれまで携わってきたことが役立っている。(編集は所員の持ち回り) 最近、団体の機関誌の編集をきっかけにいろんな人と出会い、いろんな体験をさせてもらっている。 その機関誌では、決算報告や役員人事など、各種団体広報誌のありきたりの内容は極力減らし、900名のメンバーの情報、知識、経験を活かしたものにした。12月中旬の発行に向けて、11月中旬頃から記事づくりのため、様々な方と出会うことになった。 まずはじめに青年海外協力隊の日本語教師としてコートジボアールで活躍した人の取材、あまり聞くことのないその国の文化を聞いた。 女性はとにかくおしゃれなようだ。服は布を買って仕立て屋で自分好みに仕立てるのがスタンダードであるようだ。布の柄は実に多種多様でまちあるきが楽しくなるということだった。 学校の制服(女性の場合)は柄が全国決まっていて(赤白、もしくは青白のチェック地)服のデザインは全く自由ということだった。女性の髪の毛はいろんな編み方をして飾り、頻繁に変えるということだった。美に対する執念はどこの国も変わらないことを知った。 ある分野に異常に詳しい“マニア”をとりあげたコーナーでは「真空管」の話をうかがうことができた。電子機器の心臓部がIC、LSIなどの半導体に置き換わった現在でも、音響機器や電子楽器の分野では音にこだわる人は真空管が使用されているものにたどり着き、特に西欧諸国では未だにかなりの数が流通しているということだった。 地域のおすすめを紹介するコーナーでは折尾にあるチャンポン屋を取り上げた。店の中の雰囲気は昭和40〜50年くらいで時間が止まっていた。チャンポン一杯200円だった。130円のクリームぜんざいも人気商品だった。まわりを見回すと高校生ばかりだった。携帯電話が普及した現在でも、このように昔から続く高校生のコミュニケーションの場が残っていることになんだかホッとした。 フリーマーケットにも参加し、自ら段取りし、不要品を集めてまわった。近年、リサイクルショップが乱立しているがその理由がわかった。女性のファッションはブームが去ると洋服がここにくる。また、お中元、お歳暮、結婚式の引き出物の墓場でもある。日本の豊かさを改めて感じることとなった。売れ残ったものは海外に送れないかなど考えたが、様々な機関を経て届けられるため、人件費がかかり、新品を支給するよりも金がかかるといわれた。 今後は、機関誌を団体内で閉じたものにするのではなく、もっと外に向けて発信、また、逆によそを引き込むような取り組みを行って、団体外とのネットワークを強めた記事にしていきたい。 (小田 好一) ■ボランティアは体力勝負! 昨年8月から毎月1回、日曜日にNPO法人地域生活支援センターForza(よかネットNo. 56で紹介)が知的障害児・者を対象として行っているレクリエーションに、ボランティアとして参加させてもらっている。昨年度、新宮町と築城町で障害者福祉計画策定のお手伝いをさせてもらったのだが、その仕事をしながら、私自身があまりにも障害者のことを知らなすぎるな、ということをいつも考えていた。ここで全てが分かるとは到底思っていないが、少しでも何か得るものがあったらいいな、という気持ちで参加している。 このレクリエーションは昨年6月から、社会福祉・医療事業団の助成により行われているものである。Forzaの利用者だけではなく、参加者を新聞などで広く募ったそうだ。動物園探険、陶芸体験、宿泊での自然体験(8月)など、毎月様々なメニューが用意されている。 レクリエーションでは参加者1人にボランティアが1〜2名つく。最初の頃はボランティアとして参加しているが何をすればいいのか、どこまで手助けをしていいものなのかが分からず、随分と戸惑っていた。最初に参加したメニューが、1泊2日という時間を過ごす宿泊体験だったこともあり、2日目には「自分がどうこうしようと考えるよりも、自分が担当している子が楽しい時間を過ごせるようにお手伝いができればいいな」という考えを持って担当の子に接することができるようになってきた。 ボランティアとして参加する事がだんだん楽しみになってきているのだが、そのたびにあまりの体力のなさに自分自身驚いている。毎回3〜4時間という短い時間にも関わらず、終わる頃にはもうくたくた。中でも動物園へ行ったときのこと。広い園内を約2時間あちこち歩き続けたため、解散になったときには息が上がってしまっていた。普段からあまりにも体を動かしてないなと思っていたが、そのつけが一気に回ってきたといった感じだった。 こんなことじゃだめだ、少しずつでも体を動かして体力をつけないと・・・と思っているが、未だ行動には移っていない。新しい年の始まりとともに、体力づくりにもう少し気を配りたいなと思う次第である。 (梶原 里香) |
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