<よかネット>No.61 2003/1
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障害者8人、健常者5人、近所のパートのオバサンたち約20人と、
“そうじ、くさかり、あとかたづけ”とビルメンテナンスを
仕事にして株式会社をやっている
・・・・暴走型ネットワークづくりの達人、
鰍ネんてん共働サービス社長溝口弘さん・・・・
             糸乘 貞喜

21世紀のムラオサの誕生?。新しい、地域のネットワーク形成の、モデルになるかもしれない
 この人は「何者なんだろう。地域にとって何だろう。家族にとって、友人にとって、どういう存在なんだろう」と思った。溝口弘という男をどう捉えればいいのか、どう紹介したらいいのか、書きあぐねていた。
 本当のことをいうと、会社以外にも、男女それぞれの知的障害者グループホーム、デイケアハウスを運営しており、さらに痴呆老人のグループホーム(G・H)をこの12月にスタートさせる。このG・H建設費の予算書には、補助金収入2500万円、雑収入4000万円としか載っていないが、この4000万円は借金である。「私には銀行が金を貸してくれないので、みんなに保証人になってくれるように頼んだんですが……」と溝口さんがいう。溝口さんにはすでに前科がある。
 デイケアハウス共生舎を、周囲の反対を押し切って作った。「なんてんに係わる会」の人たちに相談すると、「これ以上借金を抱えてまでしてやるな」といわれたが、自分名義では銀行から借金出来ないので、息子名義で借金をし、会員や田舎で暮らす兄弟から借りて、民家を買って始めてしまった。
 とりあえず走り出してしまうような溝口さんを、周囲の仲間たちはハラハラドキドキしながら、見守り支えている。とはいえ、先の見えない借金の保証人になるわけにも行かない。結局、七人衆を中心にした友人たちが、2%の金利・10年返済という条件で貸すことになった。もちろん、それぞれがNPO法人の中心メンバーではある。
 私はまだ、溝口さんには4〜5回しか会っていない。その時の顔、奥さんの顔、話、案内してもらった会社やグループホームなどを思い出し、いただいた記録を読んだりしながら考えていたことは、「この男は新手のムラオサかもしれない」ということである。
 昔は、農村にしても、都市にしても、漁村にしても、そこに住む人は、住む場所に関わる仕事をしてきている。その人の生業(なりわい)が、住んでいる場所と全くかかわりがないなどということは、泥棒を仕事とする人以外考えられなかったに違いない。しかし現代は、大量生産型のモノづくりや、大量供給型のサービス業の場合は、その土地とかかわりのない仕事が多い。働く人も生産の現場近くに住んでいるわけではないので、住まいの移転はフリーである。つまり、農村地域でも二種兼業の通勤主体の暮らしが多くなってしまっており、サラリーマンでなくとも住まいの移動は自由であるので、子供の学校の問題もあって、若い人たちは都市に移住してしまう。
 今では、水の回ってくるのに対応して、共同で田植えをするわけでもなく、近所の家に頼まれた豆腐や桶などを作るのでもなく、一緒に漁に出るのでもない。仕事での共働という、ある程度強制的な地域システムは存在しなくなってしまった。仕事や商売では、地域のつながりを必要としなくなっている。しかしただ一つ例外がある。
 たまたま障害者に生まれてしまった人や事故で不自由になった人は,遠くまで通勤しながら働いて生きていくというようなことは難しい。年を取って動きが不自由になった人も、土地に縛られやすい。溝口さんがやっているのは、まさにこの地域に縛られ、それでいて絶対にないがしろには出来ない仕事である。昔と現在を比べて、次のように見ることが出来ないかと考える。
@昔の町年寄り・村長(むらおさ)=稼ぎと暮らし全般にわたって町人や村人を指導した
A今の町年寄り・村長(むらおさ)=商売はバラバラになり、稼ぎの面で一つのシステムで指導する必要はない。強いていえば、一般の稼ぎについていけない人の仕事には配慮する必要がある。また暮らしの面でも、生活や教育全般ではなく、みんなが係わる分野(子供のしつけや教育、知的障害者・身体障害者・不自由な高齢者)でのサポートなどをすればよい。
 結局、溝口さんが日頃いっている「自分が住みたいと思う場を作る」「障害者や高齢者と共に、地域の中で普通に、淡々と暮らしていきたい」といっている言葉の示す範囲が、現代のムラオサのテリトリーになっているように思う。一つだけ食い違っているのは、「淡々と暮らす」という日が、溝口さんやその回りの人たちに、いつ来るかということだろう。

●どんな事業をしているのか
 実は、会社になる以前に十年の歳月がある。それ以前にさらに十年間、田村一二氏に師事して知的障害児・者の施設にいた。その時の思いから「収容ではなく、障害者のいられる場」を求め出す。そのことは溝口さんが書いているので南天通信第6号(1989.10.1)から引用する。
 なんてん共働サービス
 56年9月1日に業務を始めました。スタート当初は私たち夫婦とT君の3人でした。最初の1年間は仕事も切れることが多くて、ずいぶんつらかったです。
 施設職員として約10年勤務したあと、この仕事を始めた訳ですが、その動機はつきつめればやっぱり障害者の隔離収容の上にのっかって給料をもらってた、ということと、共に生きるなんてことは少なくとも、現在の施設の中では嘘っぱちである、という自らの差別に対する反省にありました。
 共働の事業の内容は、外廻りのメンテナンスと銘打って、病院や工場や県道や個人の住宅などの草刈り草ぬき、植栽管理、建築現場の跡片づけ、駐車場や公園の清掃などをやっています。また2年前からはメンテナンスにもそのエリアを拡げ、体育館や住宅の管理などもやっています。
 構成は障害を持つ人たち(主に知恵遅れの人)が6名、パートやアルバイトの人をいれて、いわゆる健常者が14名働いておられます。(週平均2〜3日の休みがありますので実働は1日それぞれの2/3位)この人数がだいたい3つのグループにわかれて、それぞれの現場を廻ります。だからそれぞれのグループに障害を持つ人が1〜2名ですので、ごく自然な形で作業が進行していきます。
 例えば草刈りの場合、機械を使うアルバイトのK君(それに軽い知恵遅れとして施設を卒業したK君が一緒に機械を使う)、フェンス際などをパートのYさんやKさんが鎌を入れる。脳性マヒで若干手足の不自由なY君とYさん(近所のおじさんも働いている)が集めてトラックまで運ぶ。この様に各人の状況によって自然にポジションも決まります。
 全体からみればたしかに健常者ペースに近いのですが、個々はしっかりとマイペースを守りながら働いています。
 力があってやらないのは互いに指摘すべきですが、力いっぱい努力している人を認めるというのはいわずもがなのことであります。
 この様に、福祉という特殊な部分に片寄らず、何とか普通の形で共働の事業をやっていこうというのが基本姿勢であります。だから形態も会社法人へ向けて準備中です。
 もっとも賃金の面は、創業5年目でまだまだその基本からは程遠く、障害を持つ人たちの日当は1200〜3000円でしかありません。もう少し仕事が安定して続いてくれたらいいのですが、思う様にいきません。世間並(以上)なのは借金だけというのが現状です。
 それと福祉行政(県・市町村)からの補助金はもらっていません。運用のはばは許されていようと、やっぱり人件費補助は知らず知らずに上下関係をつくるし、実際もらい始めると悪戦苦闘している共働の毎日が甘くなると判断しているからです。
 もちろんその制度そのものを否定はしていないし、また「共働連」で続けられている対行政交渉も支持しています。ただ「なんてん」では、いまなんとか苦しみながらでもやっていけているから補助申請をしないということで、障害の重い人たちの多い作業所や個人の事業については、その不足分を保障する様に求めるのは当然だと思っています。
 「なんてん」ではいわゆる知恵遅れといわれる障害者が大部分で、何とか各人が身動きがとれて働くことができますので、皆で努力して何とか売上げを伸ばしていこうと話しています。
 いろんな所でいろんな人たちがいろんな形態で自立を考え、実践していったらいいと思います。                   (1985.10.25)
私の感想をいうと、「そら、あんたの言うことは普通やし、常識的な考えやろ、しかし多数やないで」となる。世の多数意見というものは、非常識が多い。だが、「そこまで常識にとらわれんでも……」という気がする。

●知的障害者に仕事をさせるなんて、ムチャではないのか
 「なんてん共働サービスの人々」(毎日放送)というビデオを見せていただいた(私の手元にあります)。その中でヤマチャン(最古参の社員)の日曜日が出てくる。彼らは町営住宅を改造した、個室つきのグループホームに住んでいる。「配慮はするが変な気遣いはしない」ので、日曜の昼は自分で食事を確保しなければならない。ヤマチャンはゆっくりとした歩き方で、コンビニに出かける。そこで店の人に聞き取りにくい言葉ながら、何とか尋ねながら、手に塗る荒れ止めのクリームとコンビニ弁当を買う。一つを買うのに、迷い迷いするので少々時間がかかる。しかし店の人も心得ていて、ヤマチャンはゆっくり買い物を楽しんでいる。帰って食べたあと、洗濯物を干すシーンがある。そこで隣人に、「ハンガー貸してください」と言うが、その言葉が私には聞き取れないのだが、となりの人は十分聞き取って、差し出してあげている。
 このシーンは、福祉関係者の中で見方が分かれたらしい。「車の走っている危ない道を一人で行かすなんて……」という意見と、「自分の思いで外に出ていって、高級ではないが、勝手に弁当を選んで食事するなんて、最高に豊かやないか……」という見方である。念のためにつけ加えると、夕食はキーパーさんが来て作ってくれる。彼らはその費用を、4人が4万5千円づつ負担している。キーパーのオバサンもいい人だ。「私は、あーゆうひととはじめてで……」と、とまどいながら、「ほんとーに、純真でいい人ばかりですよ」といっている。彼らは普通を満喫している。健常者(何が健で常なのか)でも賄い付きの下宿にいる人があるし、コンビニ弁当を食べている人もいる。
 もう一つビデオのシーンを紹介する。これは、溝口さんが見学に行った、「富山型デイケアハウス」といわれている『にぎやか』という施設の阪井由佳子さんの話。阪井さんは理学療法士としてある施設に勤めていた。そこで、毎日お菓子を袋に入れて、食べることが唯一の楽しみである80才のおばあちゃんが、医者、看護婦、阪井さんなどのカンファレンスで議題になった。「太りすぎているね」という医者の一言で、次の日から“菓子没収”になってしまい、みんながヨーカンを食べているのに、一人だけオレンジを食べさせられている。「私は、『ここに百万円とアンパンがあったらどっち取る!』と聞いたんです。『アンパンがいい』というんですよ」「私は、80才やんか、糖尿病でもいいやんか、明日死ぬかもわからん、年寄りの介護はありのままがいい、こんな管理的施設では働けん」といって辞めてしまう。そして、“子供から老人まで、障害者でも、精神薄弱者でもいい”という施設を自宅で始めてしまう。“70や80の老人だけだと陰気くさい、小さい子、歩けるようになった子などがいるとパワーがもらえる”という家の中は、喧噪そのものである。お年寄りがテレビを見ていると、小さい子が来て「テレビ見てもいいですか」と聞くと、、年寄りが「今見てんじゃねーかよ」と怒鳴るような、日常がある。

●仕事の現場では、知的障害者とどのようにして仕事をしているのか
 道の掃除に出た時の一カットを、溝口さんが書いている。それを引用する。
 『なみだ』
 涙。まるっきり見ず知らずの奥さんに涙を流させてしまった。
 県道の側溝清掃のとき、契約期間もあとわずかということで、雨の中、みんなでカッパを着ながら作業をしていた。
 みんな、わき目もくれず働いていたので、途中で桑原君がいなくなっていたことに誰も気がつかなかった。
 道路側の玄関先に険しい表情で立たれた奥さんが、いきなり「どういうことですかッ!何とかしてください。困ってます!」と怒られた。
 「トイレ借りといて、ありがとうもいわず、どころか、ひどくあちこちを汚して、どういうことなんですかッ!」
 見渡すと、ちゃんと、みんな、いる。奥さんの声でびっくりして手は止まったものの、人数、ちゃんといる。
 「おかしいな。みんな、いますけど。誰か、お借りしたんですか?」と聞き返したら、「誰って?名前は知りませんが、おたくの若い人ですよ。本当にィ!」と憤懣やるかたない様子であられた。 
 もう一度、ぐるーっと見まわしてみると、「あの人、そのお兄さんです!」と歩み寄られた。
 「えーっ、桑原。いつ、トイレ借りたんや?ちゃんと、いうてから行く、という約束やったんと違うのか!」と問いつめると、黙ってこちらを睨んだ。
 それどころか、「汚してない。(ありがとうと)いうた」と、まだぶつぶつ文句をいった。その横柄さにカチンときて、「じゃ、誰が汚したんや?奥さんがいうてはることはウソちゅうのか?ほんまにどういうこっちゃ!」と怒鳴ってしまった。
 横から後藤さんも、「コーちゃん、謝れ。奥さんに謝れ!」と追い打ちをかけた。
 「なあ、桑原。誰であっても、迷惑かけたら、ごめんなさいと謝って、汚したら、元通り掃除をしてくるのが当たり前だぞ。なんてんの誰がウソつけと教えたんか?」と迫ったら、やっと「ごめんなさい」と頭を下げた。
 仕事にかかる前に、「お騒がせしますが、よろしくお願いします」と声をかけていたのを見ていて、知り合いの家と勘違いをした様子であった。 奥さんの前にじーっと立ち尽くして、一筋、二筋、涙を流し始めた。頑固この上ない桑原君が、珍しく涙した。
 自分のしでかしたことの重大さと、ウソをついてしまったことの大変さを思い知ったのだろう。くしゃくしゃにして泣き始めた。
 しばらくして、この激しいやりとりをじーっと見られていたその奥さんが、急に泣き始められた。 
 「すいません。私、汚れを掃除していて、つい、カーッとなってしまったのです」「掃除するくらいなんともなかったのに、きついこといってしまって、すみません」と、いっそう涙多くされてしまった。
 「ちゃんというてはったのに、こんなに責めてしまって、そんなに怒られさしてしまって、どうしよう。本当にすいません」とすっかり立場が入れ替わってしまった。
 夕方、気持ちを切り替えた桑原君は、梅子さんと一緒に手土産をもって奥さんのところへ行ってきた。
 にこにこと、納得したいい顔で帰ってきた。「なんべんも頭下げさして、悪いことしました」と逆に深々と頭を下げられたそうだ。
 いやなことやつらいことを恐れては、出会いもぶつかりもない。桑原君の心の変化も、私たちの気づきもない。もちろん、怒りや涙やほほえみもない。

●知的障害者が、高齢者デイケアハウスのスタッフだなんて・・・・
 息子の名義で借金をし、みんなに借りまくって中古住宅を買い、デイケアハウス「共生舎なんてん」のことは、先に少しふれた。ここは10人余の人が利用しているが、ここのスタッフに知的障害者が勤めている。はじめは、スタッフから反対があったりしたが、今では、なくてはならない人となって、みんなに親しまれている。結局、スタッフだからといって、あらゆる点で一方的に世話をするだけ、ということになる必要はないのだろう。

●「なんてん共働サービス」の周囲には、たくさんのネットワークがある
 はじめにムラオサ論を書いた。そこで溝口さんだけがムラオサであるかのように書いたかもしれない。しかしそれは正確ではない。「なんてん」の周囲にはたくさんのネットワークがある。溝口さんが大学を出て勤めた「落穂寮」の十年以来の仲間を中心とした「七人衆」が「なんてん」のスタートを見守った。もちろん、親、兄弟に始まって、多くのサポーターがいる。溝口さんに言わすと「何十人に助けていただいている」ということである。ここに2002年12月24日開所する「グループホームわいわい」(NPOワイワイあぼしクラブ)の案内があり、名簿が載っている。これが「なんてん」全部のネットではなかろうが、その一端を示
ていると思うので以下に紹介をする。
○融資・出資・寄付ありがとうございました
 ・融資;グループホーム建設  16人
 ・出資;市民共働発電所    11人
 ・寄付・カンパ;物品含む   24人
 ムラオサの話に戻ると、これらの人たち全部がムラオサだと思う。複雑な現代社会のムラオサは、一筋縄ではいかず、社会システムとして対応して行かねばならない。範囲も不定形になる。おそらく、溝口さんが中心になっている「なんてんムラオサシステム」にも、出身地の九州の人や、あるいは東京の人もいるかもしれない。
 個族化社会を支えるのは、多方面に張る巡らされる“新しいムラオサシステム”になるだろう。そしてその活動が、土地にねざした“土地柄産業”の創造にもつながると思う。      (いとのり さだよし)









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