<よかネット>No.56 2002/03
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三〇〇坪の小宇宙……「こだわりの塊」博物館探険隊員募集

 つばた しゅういち・英子夫妻の「思いの塊」博物館へ行って来ました。
長い長い間、お誘いを受けながら何年も経って、やっとこの目で見てきました。家についてまず最初に、奥さんから「この家には玄関がありませんのよ。そこからどうぞ」と言われて、縁側のような所から上がる。後でアントニン・レーモンドの本で示しながら、その麻布のアトリエの一部を再現した家だと聞いた。アトリエの方々に玄関がついているはずもなく、なるほどとは思ったが、それは後の話。はじめに聞いたときは、「えっ」と思った。とはいえ入り口は十分に広い。
 つばたさんにお会いするのは、1989年以来だと思う。私がリゾ−ト計画を受注していて、指導・応援をしていただいた時以来のはずである。当時のリゾート計画は、「リゾート」とは名ばかりで不動産・マンション販売企画でしかなかった。ディベロッパーの中では、日本中の田舎に高層マンションを建てるという空気が充満していた。わが計画地区の参加メンバーにも、ディベロッパーやゼネコンが何社か参加していた。その人達は「5,000億円かできれば1兆円の計画にして欲しい。3,000億が最低限だ」などといった要求が出ていた。私の計画は、当初2億円ぐらいの公共側の計画で、民間の投資は第三期ぐらいだった。私に対する参加メンバーの評判は極めて悪く、「話にならん。会社に帰って説明もできん」と言われ、私は「そんなバカな話は絶対にない。空論だ」といって突っぱねていた。「そんなものが売れるはずがない。あなたは買う気になりますか」といって渋々納得というよりも、あきらめさせていた。
 話をもとに戻したい。
 奥さんには、もちろん、はじめてお会いした。お茶をいただいているうちに、なぜかご飯の話になり、ご飯を炊く土鍋の話になった。その土鍋を見せながら、その「うまさ」について講釈をされ「よし絶対にそのメシなるものを食うぞ」と決意した。(図2)
 これ以降読み続ける方は、気の毒ながら、私の受けた「もてなし」について、延々と自慢され続けることになる。というより先ず、反省からはじめたい。
 滅多にないことだが、当日、私はカメラを持っていなかった。数日間出張が続くので、腰痛が心配だった。そのことをブツブツ呟きながら、お話を聞いていた。家に入って話を聞き始めても、メモを取らなかった。「これはもう一度出直しだな」と覚悟を決めていたからである。
 ところが4〜5日回り道をして、糸島の我が家に帰ってみると、先に「取材メモ」つきの「手描きで色つきの写真」が届いていた。このページに載せてある図がそれである。つばたさんの家で色々もてなしを受けて、その上に当日写真機を持っていなかった私を見て、この手回し。これは恐るべきことです。
 あとは、つばたさんの「手描き色つき写真」に沿って説明するだけ。まず始めに、京都の玉露と静岡のゴマ団子をいただいた。ついで、「これはね娘が1ダースをプレゼントしてくれたボージョレヌーボーの最後の一本なんですよ」といいながら注いでいただき、つばた家特製のベーコンとジャガイモの炒めたものををあじわう。そこへオホーツクの鮭の薫製と菜の花の和えものに蕪の酢づけ。ついで手づくりのトーストパンにイタリヤのパリゴールチーズ。このチーズは塩っぽいがいい味だった。ハタハタの一夜干しも、もともと魚が良かったのか塩加減ともども上味だった。
 「ベーコンや鮭の薫製につけた方がいいかな」ということから醤油の話になった。和歌山湯浅の「角長」さんの「ニゴリビシオ・濁り醤」の新しいビンをわざわざ開けていただき、味わった。紅茶、手ずくりのプリン、ハブ茶もいただいた。図の左下にはご夫妻の年令まで書かれている。77才、74才。その右上がテーブルの配置図。
 これ以上紙数がないので、「探険隊員募集」の話に移る。午後一時頃名古屋の高蔵寺ニュータウンのつばた邸着。三時間ぐらい、ベーコンを作るための煉瓦の炉はどうして作ったか(次に来られたらベーコンを作りましょうね…と言われている)、コンポストでどうして肥料を作るか、などを見聞きする。人数に大制限があります。四月上中旬の土日ぐらい。申し込みは糸乘まで。   (糸乘 貞喜)


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