<よかネット>No.52 2001/07
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                                        ひともうけ通信6
“平凡・常識教”を、私に納得させてくれた
 恩人・藤野良幸先生のこと

 藤野先生は、私の人もうけの原点になっていただいた方である。3月10日に<藤野良幸先生を偲ぶ会>があった。亡くなられて、八年経つと聞いて、我ながら人情の薄いことだと思った。
●古墳のないとこは、昔の人が住んでなかったということやから、開発適地やないということや
 藤野先生というと、私はふたつのことを思う。ひとつは“ひともうけ”のキーになっていただいた方としての、楽しい“思い出”であり、もう一つは、先生の命を縮める(偲ぶ会の出席者からでた言葉)こととなった銀行との関わりの、やりきれない“思い”である。 偲ぶ会で十七人の出席者が、それぞれの思い出を語ることになった時、私の話すことは決まっていた。それは「ここには古墳があまり無いやろ、ということは人があまり住んでなかったということや。つまりな、水が良うないちゅうことや。ここは中国山地の外れやろ、金気がでる水しかないのや。だから、あの辺の土地買っても、水が問題やぞと言うてたやろ」という言葉である。
 この時「えらい、ええ加減なことを言う人やなあ。けど、分かりやすいなあ。でも、こんなことで通るんかいな」と思った。この仕事は兵庫県下の工業団地の「水対策」の仕事で、私は勉強のつもりで委員会に出させてもらっていたような状況であった。この会議で兵庫県の金井さんに会って、その縁でたくさんの仕事をさせてもらうことになった。本誌の前々号の「ひともうけ通信4」のなかでとりあげた「但馬のメシとオカズ」の話の元になった仕事も、その一つである。
 「そんないい加減な」と思われるといけないので、もう一人証人をあげておく。それは先生の息女である北村佐津木さんの「父はコンサルタントの仕事を受けるときは,結論がでるまで大変苦しんでいた。そして、自分は畑違いから入ったので、専門家ではないとも言っていたし、“当たり前のことしか言わないのに、それでも感心してくれるんや”といっていました」という話である。
 藤野先生は、もちろん「ええ加減な」仕事をする人ではない。上記のようなことを言いながら、現場重視で、実証的で、説得力のあるデータを作ろうとする人だった。上の言葉は、大規模な開発適地が、そう都合よく転がっている訳はないということを、言いたかったのだと思う。
 日常の思い出としても、何人かが電車で出かけるときに、私が自動券売機で全員の切符を買おうとしていたら「糸乘君、こんなんはな、銘々が買えばいいんや。これはな、仕事を分散して(全体としての)負荷を減らすシステムなんや。切符代もしれてるから、それぞれ負担したらいいんや」と言われた。当時は、同時に何枚も買える券売機はなかったので、一人で全員の分を買っていると、全員が待たされることになり、かえって都合が良くないことではあった。しかし、こちらからは「はい、皆さん切符を買って」というわけにはいきにくい。これが藤野先生にあうと、きわめて素直で合理的な解決策がでてきた。
 こんなことを書いていると、つい目の前に浮かんでくる状況がある。委員会などでは実によく「居眠り」をする人だった。報告などほとんど聞いていないはずなのに、ポイントの所になると適切な意見を言われた。 この先生が大変な災難に遭われたのである
●日本の銀行の悪習・連帯保証で命を縮められる
 藤野先生を「経営者」だと思っていた人とはいなかったと思う。水問題、環境問題、地域開発についてすぐれたプランナーではあったが、金の貸し借りなどの経営ができる人ではなかった。その人が立場上、財団法人の専務理事になったり、株式会社の取締役(?)になったりすると、銀行はしゃにむに連帯保証のメンバーにしてしまう。そしてその会社が倒産したのが1983年のことである。
 私にはつらい思い出がある。倒産の数ヶ月前だったか、藤野先生に「一月だけ一千万円貸してくれ」といわれた。「大体この人は、資金繰りには関係のない人なのに」と不審に思いながら、社内で相談し、送金した。相談したとはいえ、最終の意志決定の責任は私にあるという、暗黙の社内状況になっていた。案の定、一ケ月経っても返らない。「もうちょっと待ってくれ」ということが何回か続いた。私は意を決して、「先生、この金は取引と全く関係のない金ですから、とにかく一度返して下さい」といった。その時は資金繰りが、どうにもならない状況だということは、私にも分かっていた。一月ほどしてだったか、銀行に振り込んだからという連絡を受けた。とにかく返してもらったのである。そして一月以内ぐらいに、資金繰り破綻で、手形が不渡りになってしまった。何十億という負債総額の中では、一千万円ぐらいのお金はどこに行ったかわからないぐらいのものだろうし、どこかの貸金業者に少し入ったぐらいだと思う。かなり強硬に言って返してもらったので、私も先生もつらかった。しかし、よい人間関係は残すことができた。
 ただ、倒産後、私どもの事務所の顧問として、わずかな金額ではあるが、月々送らせていただいた。“貧者の一燈”のつもりだった。
 あまり、保証人としての意識のない連帯保証のために、その後先生は苦しまれたのだと思う。
 私は聞いても力になり得ないことなので、その後のことは何も聞いていない。
 私自身、会社の資金繰りの責任者として、担保はもちろん、「個人保証」で、いつもがんじがらめだった。前号にもふれたが、個人保証というのは、死ぬ以外に逃れられない仕組みである。
 昨今、銀行が大口の負債を棒引きにしている。一社に対して、何千億円である。大銀行の債権償却総額が何十兆円ということである。その間の、庶民の預金の金利は、ほとんどゼロになっている。個人の金融資産が日本全体で1,200兆円とも1,300兆円とも言われている。1%の金利相当分が12〜3兆円になるのに・・・。
 藤野先生の亡くなられたのは、1993年だった。先生の亡くなられる2〜3年前だったかも知れない。京セラの“サムライ”というカメラが出た年に、長いことお世話になったということで、サムライをお届けした。しばらくして、「おたくのおかげでな、カメラを持って外にでる癖がついてな、身体が元気になったんや」といって写真を見せに来られた。それがお会いした最後の機会だった。
 私は、大体三つの仕事をしてきている。一つは都市再開発などの事業的なこと、ふたつ目は都市開発、もうひとつが農村計画である。都市開発の仕事はほとんど藤野先生に負っている。都市開発といっても藤野先生のは山から海までつながっている。典型的な例は寝屋川河川公園で、「今、田圃がなくなったのやから、そこが受け持っていた保水力を池でもたせたらいいんや」といって遊水公園をつくられた。とにかく“ええかげんな”ことを言う人だった。バブルの頃、私は「最終需要のないものが、本当に実現するはずがない。今言われている開発話は全部大ウソだ」といって、全く踊ることがなかった。これも、平凡・常識教に入れていただいたからである。(いとのり さだよし)

<藤野良幸氏略歴>
大正6年9月  奈良県橿原市八木に出生
昭和16年   大阪帝国大学理学部物理学科卒業(伏見康治先生に           師事)
昭和17−20年 陸軍気象部にて高層気象及び天気観測・予測に従事
昭和20−24年 中央気象台(現気象庁)大阪管区気象台にて高層気           象観測・天気       予報担当
昭和25年    近畿地方建設局企画部勤務、洪水予報担当技術者と          して採用
昭和37年   総理府近畿圏整備本部設置にともない水問題担当調査         官以後、近畿圏の治山・治水計画及び地域計画を担当         するとともに、行政、コンサルタント等の指導に当たる。
昭和37年   近畿圏整備基本計画 水部門原案作成
昭和39年   琵琶湖自然環境学術調査(京大・宮地伝三郎)
昭和41年   京阪奈丘陵住宅地開発調査(京大・西山夘三)
昭和44−48年 琵琶湖総合開発調査及び総合開発特別措置法の            調査検討
昭和46−50年 播磨内陸都市圏計画(神大・米花稔)
昭和48−57年 退官の後、財団法人都市調査会専務理事に就任
昭和49−51年 京阪奈丘陵調査(西山・長尾・藤野先生)
昭和50年   財団法人関西空港調査会設立
昭和52年   関西学術研究都市調査懇談会設立事務局担当委員
昭和56年   スバルプラン(近畿創世計画)の設立


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